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・向坂甚内(こうさかじんない)
向坂・鳶沢・庄司と三人の甚内がおり、いずれも忍者から転向し、江戸で活躍した。 向坂は信玄の重臣、高坂昌信の一族といわれ、武田家が滅んで後江戸で盗賊に 転業した。当時、風魔小太郎も同じように江戸で盗賊となっており、縄張り争いか ら甚内は小太郎を幕府に密告する。同業者を売るようなまねをした甚内は最後に は自分も幕府方に捕縛され刑死した。鳶沢は風魔一党の仲間で、向坂を謀り小太 郎の仇を討った後、古着屋を商いにした。多くの仲間が古着商となり、その街が「鳶 沢町」と呼ばれる。後の「富沢町」である。もう一人、風魔の生き残り、庄司陣内は日 本橋吉原で遊郭を創設した。訳あって甚右衛門と改名する。その辺りのことについて は、“隆慶一郎”の吉原御免状・かくれさと苦界行でも取り上げられている。 PR |
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・石川五右衛門(いしかわごえもん)
釜茹でになった伊賀忍者崩れの大盗賊。伊賀石川村で生 まれた。百地三太夫の弟子という説が有力だが、異人僧の 臨寛から忍術を伝授されたともいわれている。歌舞伎や浄 瑠璃の多くは義賊として登場し、人気が高い。最後は秀吉 の伏見城に忍びこんだが、“千鳥の香炉”が鳴いて失敗す る。捕縛され釜茹での刑に処せられる直前の『浜の真砂は 尽きるとも世に泥棒の種は尽きまじ』という台詞は有名であ る。 |
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・角隈石宗(つのくませきそう)
大友宗麟の軍師として活躍し、軍配者石宗と呼ばれていた。幻術や兵法の奥義の 精通しており、出陣の際に吉凶を占って行動していた。しかし、宗麟がキリスト教に 傾倒していく中で、石宗の進言を軽んずるようになってくる。ついには、耳川の戦い で石宗の諫言を無視し、島津軍に大敗している。失望した石宗は、兵法の秘術を記 した「大事の所伝」を焼却し討ち死にした。 |
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・熊若(くまわか)
武田信玄の重臣・飯富虎昌に仕えた甲斐の透波(忍者)。早駆けの達人で、第四次 川中島の戦いの直前、虎 昌は軍機を忘れて来たことに気づき、熊若に往復六十四 里を取って来させたが、なんと二時で戻ったという。約256キロメートル、を4時間で 走破したことになる。その後、信玄秘蔵の『古今和歌集』盗難の嫌疑を掛けられたが 、真犯人の加藤段蔵を捕まえ無実を証明してみせた。 |
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・山田八右衛門(やまだはちえもん)
『萬川集海』に名を残した、忍術名人十一人の中の一人。本姓は瀬登だが、伊賀の 山田に住んだことから山田と称した。数多い忍術のなかで、「双忍術」を得意とした。 双忍術とは、複数の忍者が同じ服装をして敵を欺いたり、二人の忍者が組んで忍び 込む技を指す。その中でも八右衛門は変装術に秀でていた。 |
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