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【2025/06/07 10:04 】 |
徐福説
・徐福説

織田信長の伊賀攻めを記した『伊乱記』には、「上代より伊賀imgf70cb5e5zikfzj.gif

の遺風とて、そのいにしえの、御色多由也より諜術を伝えて」

とある。この“御色多由也”という人物が“徐福”であるという。

徐福とは、秦の始皇帝に仕えた道士で、始皇帝の命により、

はるか東海の蓬莱国にあるといわれた不老不死の霊薬を探

しに日本に渡った人物であるしかし、山野をめぐっても霊薬を

見つけることができずに、引き連れてきた若い男女と共に日

本に帰化した。この時、製紙や仙術など日本に伝えたものの

一つに忍術があるのだという。
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【2009/01/21 21:31 】 | 始まりの忍者 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
古代中国説
・古代中国説

忍者伝書『萬川集海』では、忍術を「伏義帝より始まり、koutei.jpg

軒轅黄帝、推し弘めたまう」としている。中国史でも、神話

部分に入るほど超古代の話である。もちろん、権威づけの

ための誇張であることは確実だが、戦国時代にもこのこと

を主張していた組織は存在した。上杉氏が使っていた忍者

集団は、軒猿(のきざる)というが、これなど軒轅黄帝から

取られた名前だと思われる。
【2009/01/21 00:46 】 | 始まりの忍者 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
滝川一益
・滝川一益(たきがわかずます)

信長に仕え、関東管領にまでなった甲賀忍者。近江甲6445568b-s.jpg

賀の大原や滝城の生まれといわれている。父・一勝は

甲賀忍者の伴氏の流れを汲み、一益は少年時代から

鉄砲に長けていたという。尾張へ流浪した後、信長の小

姓として仕える。伊勢攻略での功績を手始めに、長島

城攻防戦からは水軍を指揮し、海戦で活躍している。関

東管領にまでなった一益だが、本能寺の変以後衰退の

一途を辿り、天正14年に病没した。
【2009/01/06 19:44 】 | 忍者列伝 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
城戸弥左衛門
・城戸弥左衛門(きどやざえもん)

「萬川集海」の中の伊賀忍術名人十一人の一人。伊賀音羽を本拠とし、音羽の

城戸とも呼ばれていた。二度も信長を狙撃したとされている。一度目は石山本

願寺攻めの時であり、二度目は天正伊賀の乱の時である。しかし信長の運が

良かったのか二度とも失敗し、配下の裏切りで捕まってしまう。一度は脱走した

が、逃げ切れぬと知って自害した。
【2008/12/27 23:53 】 | 忍者列伝 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
杉谷善住坊
・杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)

甲賀の名門「甲賀五十三家」のひとつに挙げられる、杉谷家の出身。甲賀随一の鉄

砲射撃の名人だった。善住坊の鉄砲は、鉛玉を二発込めた“二つ玉”という鉄砲であ

ったという。「常々翔鳥を外さず打ち取る者」といわれていた善住坊が六角義賢に依

頼され、織田信長を狙撃したことで有名である。しかし狙撃に失敗し、逃げ延びたが

後に捕まり、信長に極めて残忍な刑を受け命を絶った。
【2008/12/27 00:32 】 | 忍者列伝 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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